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【自己】生い立ち〜低学歴なんて関係無い〜

おはようございます。
TRICEです。

今日は、誠に勝手ながら自己紹介を兼ねて、『私の生い立ち』を書かせて頂きます。


私の生い立ち

仙台市の全校生徒約600名の中学に入学し、成績は下から数えて10位以内に入るくらいの『バカ』でした。
部活はサッカーが大好きな父の影響もありサッカー部に入っていました。
運動神経はいい方で、サッカーは小さい頃に父や友人と遊びながらやる位で未経験でしたが、二年生になる頃には三年生のレギュラーに入る位まで上達しました。
そのサッカーがあり、学力では何処の高校も受からないであろう私をサッカー推薦という形で受験合格へと導いてくれました。
その時、支えて頂いたサッカー部顧問の先生や担任の先生には感謝ですね。
高校も決まり毎日気の合う仲間達と遊んでいた毎日でした。
そんなある日、突然の母の家出。
ショックでどうしていいか分かりませんでしたが、その日から祖母と父と兄で暮らす事になりました。

母のいない生活にも少し慣れて来た頃に高校にも無事入学出来、高校生活がやってきました。
部活は中学の時の練習とは変わってハードで、高校に入学して半年が経つ頃には部活をサボり、学校をサボり仲間達と遊ぶ毎日。
学力も下から2番目位の成績でした。
そしていつもの様に学校をサボり近くの川で遊んでいたら一本の電話が鳴りました。
昼間だったのに辺りが暗闇に包まれた様な感覚でした。
父親の自己破産です。
気付いたら住む場所も無くなり一人暮らしをする事になっていました。
もちろん自分で稼がなきゃいけないため高校を中退せざるを得ない状況になり、ここから私はお金という物への執着心が生まれました。
父は県外へ、母は居場所不明、祖母と兄は親戚の家へ、私はボロアパート。
一気に生活が変わりました。
とにかく住む家を確保した私は、仕事を探しました。

単発のバイトを繰り返す日々、新聞配達、仕出し屋さんの皿洗い、屋台のくじ引き屋、電話帳配り、厨房機器の設置。

その他にも色々やりました。

毎月カツカツの日々。

そんなある日知らない番号からの着信。

母からでした。

1時間位喋りました。


これまで私に何があったか、どうして家出をしたのか?、今何をしてるのか?、私は今どういう状況か、私も母も全ての現実を受け止めました。
その時は、本当に無事でよかったと安心しました。

それから1ヶ月が経ち、私は仙台市のとある中小企業でアルバイトをする事になりました。

そこは飲食店、コンパニオン、ラブホテルなどを経営している会社で私は飲食店の店舗で働く事になりました。

生活のために必死で働き始めました。
最初は飲食店のホール業務から始まりました。
人見知りだった私は、
『いらっしゃいませ』も言えず、
お客様に料理やドリンクを出す時も手が震えて大変でした。
もちろん『ありがとうございました』も言えませんでした。
そこから半年が経つ頃には人見知りも落ち着きホール業務はこなせる様になって来ました。

父が飲食店をやっていたおかげで、小学校低学年から料理をやっていた私は、厨房の業務になっても包丁の扱いや調理器具の扱いには慣れていました。
正直楽勝だと思っていた。
私が料理が出来るのを知っていた店長は、『何かお通し作って』と、調理業務になって、1日目から調理をやられせてくれました。
まだ、皿の場所や器具の場所、食材の場所すら把握出来てない私は作るのに少々時間がかかったのを覚えています。
私が作ってる間に別のスタッフが仕込みをしながら、料理を作り次々とお客様の元へ運んで行く。
そこで店長が一言私に『わかった?』と言いました。
私は『はい。』としか言えなかった。
料理が出来るだけじゃ何の役にもたたなかったのです。
私がお通しを作ってる間に、他のスタッフは仕込みをしながら何十品もの料理をお客様に出し、他のスタッフの迷惑にならないように気遣いながら動きを把握して動いている。
一方私は食材も出しっぱなし、使った調理器具もそのまま、その上出来たお通しは肉じゃが一品。
悔しかったし情けなかったです。
誰よりも負けず嫌いな私は、次の日大家さんに電話をし、家賃を一カ月分遅らせてもらい、すぐ本屋さんに行きそのお金で買える分の飲食店関係の本を沢山買いました。
バイトが終わって家に帰ってきても、ひたすら包丁を握り料理をしていました。
約2年間、手の皮がめくれる程料理をし、元々目が良かったのに目が悪くなる程勉強し、動きを観察し続け、様々な情報を得るために苦手なスタッフや上司とも積極的に会話し、気付けば20歳で料理長になっていました。
こんな低学歴で馬鹿な私が中小企業とはいえ、人に教える立場になっていいのか?と凄く毎日考えていました。

毎日『お客様が喜んでくれる料理はなんだろう?』
『このお酒に合う料理はなんだろう?』
『他のスタッフが効率よく作れる料理はなんだろう?』と、
今まで以上に料理とお客様とスタッフの事を考えるようになった。
会社の利益なんて気にした事なんて無く、お客様が喜んでくれる事や『また来たい』って言われる様な料理を開発し続けた。
仙台の流行ってる様々なジャンルのお店に行き研究し、常に自分のスキルを磨いていた。
料理長になってから数ヶ月経った日の事だった。
小学校の時から親しくしている友人から『HIPHOPのグループを作ってるんだが入らないか?』と誘われた。つまりラップである。
私は中学生の時からずっと趣味でラップをやっていた。
自分でリリック(詩)を書き、適当な音楽に合わせて歌っていた。
そんな趣味でやっていた自分のラップを様々な人に聞いてもらえるなんて、想像するだけで楽しくなった。
すぐに『やる』と言った。
10人のメンバーが集まり、それぞれ独特のメンバーだった。
最初は10人位しか入らなかったイベントも気が付けば100人位来てもらえるイベントになっていった。
自分が伝えたいラップを大勢の方々に聞いてもらえ幸せだった、だが正直若かったとはいえ、厳しかった。
朝から深夜まで働き、終わり次第メンバー達と集まり曲の練習やイベントの段取り、それが終わり、家に帰りリリックを書き、1時間位寝て出勤。
という過酷な毎日だった。
『仕事でもっともっと上の地位に行きたい』でも『音楽で有名になりたい』完璧なる二足のわらじ状態でした。
私は悩みました。
そして音楽を諦めようと思ったのです。
このまま二つとも続ければどっちにも迷惑がかかる。
そして私は仕事だけに集中する事を決意したのです。
仕事だけに集中した私は、余裕が出てきて料理以外も気になり始めた。
『どうやったらこの店にお客様がもっと来てくれるんだろう?』
『スタッフの~さんの様子がおかしいな。何かあったのかな?』
『どのように接客するのが1番お客様が喜んでくれるんだろう?』
店全体のありとあらゆる事を考えるようになった。
考えるより行動派な私は気が付けば、がむしゃらに動いて店全体を変えていっていた。
数年が過ぎ、私は22歳になり本店の店長になっていました。
店長になり初出勤し気合を入れ店に向かったのを覚えています。

『おはようございます』
あれ?
何か空気が違う。。
そうです。社長は認めて私を店長にしてくれたものの、私より前からいるスタッフや年上の方は私を認めた訳ではありません。
むしろ『こんな小僧がなんで?』って感じでした。
だけど私は、皆をまとめ店をより良くして行かなければならない役目。
来る日も来る日も、どんな嫌な事があっても笑顔でお客様にもスタッフにも接し『私』という人間を売り込んだ。
もちろん店のレベルアップにも、がむしゃらに取り組んだ。
ストレスを感じてるなんて思ってなかったが、胃痛や血を吐いたり、めまいが起こり病院に行ったらストレスからの自律神経失調症と言われた。でもそんなのどうでもよかった。
『死ぬ訳じゃない。私は死ぬ気で店長をやっている。』そう思いました。

やがて一年が経ち成果が出ました。
『売上前年比130%』
会社のスタッフも私を信頼しているのが自分でも分かる位ついて来てくれている。
自身を持って思った。
『私は出来る』

そこから私は調子に乗り始めた。
ご飯もしっかり食べれなかったバイト時代に買った五万円の軽自動車を処分し、高級セダンを買った。低学歴で頭が悪い自分が社会で結果を出し同年代の人達の中でも確実に稼いでいた事が嬉しくて仕方なかったんだと思います。

そんな調子に乗っていたある日の事。
私は、家を取られて止むを得ず離れた祖母の所へ出勤前に母と会いにいきました。
祖母の家で3人でご飯食べていました。
すると突然。ガタガタガタガタと家が凄い勢いで揺れ出し、同時に鳴り響く緊急地震速報。
東日本大震災です。
激しい揺れが長い間続いた。
祖母のアパート自体は崩れなかったものの、中はぐちゃぐちゃでした。
とりあえず家の中は危険なので外に出ました。
するとお隣に住んでいるお兄さんが乾電池で観れるテレビを持って来て一緒に見せてくれた。
『大変だ』
その言葉しか出て来なかった。
知ってる風景が次々と津波で流されて行く。
その時、私はある事に気付いた。
今、津波が来ている所は祖母の家から車で10分位の所だった。
すると、サイレンと同時にヘリコプターが来ました。
『津波が来ます、直ちに避難して下さい』
私達は直ぐに仙台市内にある私が働いている職場に向かった。

私は、その日から店に泊まり店の前で社長やスタッフと朝から夜中まで炊き出しをしました。
温かい物を食べて喜んでる顔を見るのが1番幸せでした。
様々な方から色々な話を聞き涙が止まらなくなる事もありました。
それから2日後。
『放射能が来ているため外に出てはいけません。』『命の保証はありません』など福島原発の放射能漏れで様々なチェーンメールが来ました。
ですが、そんな事は言ってられませんでした。
食材を手に入れなきゃ炊き出しが出来ない。ガソリンも並ばなきゃいけない。
社長と2人で外に行き雨の中食材を並んで調達しに行った。
自分の命より大切なものが沢山ある事にこの時初めて気付きました。
それから2週間が経ち、自分のアパートに戻ると、崩れかけていて住める状態ではありませんでした。
急遽だったため物件が無かったので職場から離れた1kのマンションに引越しをしました。
普通の生活に戻ったのは一年が過ぎた頃でしょうか。
相変わらず飲食店の勉強をがむしゃらにし結果もそこそこ出していました。

震災から一年が経ち統括マネージャーになっていた私は、マネジメントの本を読みまくり、興味のあるセミナーには積極的に参加しました。
だがしかし、全然頭に入ってこない。
というか全然勉強になりませんでした。
良い本や、良いセミナーに当たってないだけかも知れませんが、既に私が知っている事、できる事、当たり前の事だらけでした。
ここからは、マネジメントは勿論『自分の色』を出して行こうと思ったのです。
『相手の意思を尊重させるマネジメント』
尊重させて良いところを更にレベルアップさせる方法をとりました。
失敗は全部私の責任。全く構わない。
成功した時には私にプラスになるのだから失敗の責任を取るくらい当たり前だと思いました。
正直『それは無理だろう』って思う意見や企画などもあったが、失敗するのを分かっていても、故意に失敗させた事も何度もありました。
失敗して分かる事が沢山あるからです。

そうして一年が経ち今の会社をやりながら、母と小料理屋をオープンさせました。
そこで私は統括マネージャーをやりながら、母の店を全力でバックアップする事になりました。
以前できなかった『二足の草鞋』をする事になりました。

母の店がオープンし、もちろん全力でバックアップするわけですが、タイミング悪く自分の会社も人手不足になってしまい忙しくなりましたが、いつの間にか『二足の草鞋』が出来るようになっていました。
母と私がオープンした店も順調に進み、私はいつの間か本業の方では副社長という立場になっていました。

生い立ちはこんな感じになっております。

本当にここまでこれたのも、自分と周りの自分を支えて頂いている方々次第だと思います。
今の私は周りの方々がいなければいません。
今でも副社長をしながら母と私の店をやり、ご縁があり、様々な企業の方々のお手伝いをさせて頂いております。
どんなに大変な事があっても、どんなに低学歴でも、頭が悪くても、自分や自分を支えて頂いている方々次第で人の上に立つ事が出来、高収入になる事だって夢じゃないと私は思います。

今日は、本当に長々とすみませんでした。


挨拶

今日は『【自己】生い立ち〜低学歴なんて関係ない〜』でした。
本日も貴重なお時間を頂きありがとうございました。

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